たくさんの葉っぱで傘をさすように

音楽が好きな小児科医です。

物事の値段

先日、ベイコートクラブというお高いホテルに泊まり、
満月とレインボーブリッジの架かる東京湾を見ながらスパに入りました。


12月の寒空の下、
真っ裸で露天風呂を歩いても周りに施設は少し遠くに観覧車があるくらい。
人のいない工場がちらちらと光り輝いていて
いつまでも見ていられそうでした。


とても、非日常で特別な体験をさせてもらったと思っています。


「贅沢だなぁ、こんな体験一生のうち初めてだ。本当に幸せ者だな」なんて、できあがったよくあるセリフが頭に浮かびました。



でも正直どうして高級なのか、なぜ一度の入浴だけに¥5000もかかるのか
私にはわかりませんでした。


贅沢だ、とは言葉上で思っているだけで、
本当の胸のうちは「贅沢(な気がするなぁ~、でもよくわかんないなぁ…)」


身にまとっているものがその人の価値を上げる、とか言うけど、
ブランドの鞄や財布を持っている友達には
金持ち自慢しているように見えたり、
なんだか引け目を感じて、そうわなりたくないって思ったりします。


たとえば、
ジムに通っていれば、¥6000/月で同じようなお風呂施設を使い放題です。
何度も通えば分割されていくんだからお得じゃん、安いじゃん


、と考えた時に、
私の価値観の中での比較対象は「ジム」でした。。
しかも文にしてみるとなんて幼稚で貧しい考え方なんだろう笑



ここで、自分にない発想を探してみました。


➡値段は何かと比較するものではないのかもしれない
➡なぜその値段になっているんだろう…?


 製作者「この位に値するものだと思うのですが、どうですか?」
 消費者「私もそう思います」→購入という行為に結びつく
  という、製作者と消費者での対話


だとすると、製作者の価値観は、あれが¥5000なわけで、
自分のなかで価値を理解しきれていない、ことがわかる。


また、購入は期待感の時点で料金が発生する。
とすると投資と全く変わりないわけで、日々ギャンブルしてるんだな
なんて思ったりもします。


数年後にまた同じホテルでスパに入って、今の自分と対話してみたいなと思いました。



*追記

欲しかった答えが見つかったのでメモ

https://gendai.ismedia.jp/articles/-/58222

誰かの歩いた近道

ランニングが楽しい、と語る人に憧れるけど

私は運動が苦手です。

待ち合わせ、とか急がなきゃいけないときとかはガンガン走るけど、

ランニングなんて続いた試しがないです…。



昨日の夜はフィギュアスケート女子全日本代表選手権大会を観ていて、


「adidasかっこいい…」


と思いました。そして履きたくなりました。


今日なら走れる気がする、と思い早速駒沢公園へ。

21:20ころで冬ということもあり、人通りは少ないけど視界に2〜3人はいる感じでした。


良いペースの作り方は、運動が苦手な自分のペースではなく、前の目標の人を決めてついていくこと。

日々もそうだなと思いました。成功例になぞっていくこと。

自分の楽なペース = 運動が苦手な人のペース であって、でも運動が好きになれない理由はきっとやり方にある。


他人のペースで走ったら、意外と楽に一周できました。



登山だって全く同じで、誰かが歩いた道 = 安全な道、でありその道が登山道になる。



学ぶことは真似ることから始まる、とはよく言ったもので、

なんだかずるい気がして受け入れられないときもあるけど

それがうまくいく近道だし、

自分が嫌なことは成長の分岐点だから、

人の道をなぞっていきたいと思いました。


https://www.sponichi.co.jp/sports/news/2018/12/23/kiji/20181223s00079000396000c.html

発信者として生きる

思いっきり3日坊主で終えた前回までの記事ですが、また始めてみようと思いました。


というのも、堀江貴文さんのこちらのスピーチに出会ったからです。


堀江貴文(ホリエモン)人生を考えさせられたスピーチ


情報はうのみにしてはいけない。自分のものにして、考えて、初めて意味がある。

そのためにはブログを書くなり、何かしら配信することで考えをまとめる作業が必要になる、と。


だから、週に一度でもいいからこうやって形にして残して行きたいと思いました。



誰に当てて書いてるわけでもないけど、誰かの役に立てばいいなと思うし、何より自分のために続けて行きたい。



てことで、今日は価値観の話。"マインドセット"が最近のテーマ。

まだよくわかってないけど、自分で思い込んでしまってる前提条件のことみたい。


たとえば、今日の両親の話。

両親が若い頃、華奢なpair glassを買ったらしく、気に入って使っていたがある日母が洗っている時に割ってしまった。

母は落ち込み、父に謝り、ペアの片割れのグラスを探したいと言ったそうな。でも1つを買い直したところで、もはやペアではない。。。


と、落ち込んでいると、父はおもむろに生き残りのグラスを片手でパリンと割った…



新しいのを買えば良いと、


もったいない、のではない


そのものの存在意味が大切なんだ、と



この話から学ぶことはたくさんあって書き尽くせないけど、私には無い(母にも無かった)マインド。

そんな父のような人にたくさん出会っていきたいと思った、そんな日でした。